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大島紬と泥染め
大島紬と泥染め
説明

奄美大島における紬の始まり
・奄美における養蚕の歴史は古く、奈良朝(西暦710~793年)以前から手紡糸で褐色紬が作られていたようで、奈良東大寺や正倉院の献物帳に「南島から褐色紬が献上された」との記録が残されています。また、9世紀頃、奄美は遣唐使の通路であり、その中継基地として中国大陸や南方地域との交流も深く、朝廷への往来も頻繁におこなわれていたので、その際の貢物として褐色紬が献上されたのではないか、という説もあります。いずれにせよ、インドのイカットがルーツとされる絣の技法が伝来していた奄美の人々にとって、紬を織るのはたやすいことだったのでしょう。

江戸時代
・元禄元年(1688)井原西鶴の「好色盛哀記」には、当時の粋人のいでたちを「黒羽二重に三寸紋、紬の大島の長羽織…」と表現していますが、紬のなかでも泥染めの渋い大島紬がもてはやされていたようです。亨保5年(1720)薩摩藩が奄美に対して「役人以外は絹の着物を着てはならない」という「絹布着用禁止令」を出しました。これ以降、大島紬は薩摩藩への貢物として作られるようになったのです。伝承では、ある日、代官の調べを受けた農家の主婦が、自分の着物をそっと泥田に入れて隠しました。後で取り出して洗ったら、テーチ木で染めた茶褐色が黒く変わっていたというのが、奄美大島の泥染め誕生の伝説として伝えられています。

明治時代以降
・1870年代に入ると、大島紬は商品として市場で取引が開始され、大きな人気を博するようになりました。この頃から、奄美大島独特の泥染めが定着し始めました。大正10年(1921)には、ほぼ全ての大島紬が、本絹糸で作られるようになりました。昭和32年(1958)頃、絣の摺り込み染色法と、抜染加工法が開発され、昭和50年(1975年)には、国の伝統的工芸品に指定されました。時代とともに、多種多様な大島紬が開発され、伝統を守りながら、技術の改善、発展が図られています。

泥染めとは
・泥染めは大島紬のもっとも大きな特徴の一つですが、テーチ木染めとセットになった染色方法です。これは奄美固有の風土と、切り離すことのできないものです。テーチ木とは奄美の方言で、車輪梅という本州から南の地方に自生する植物です。この木を小さくチップ状に砕いて、釜で半日煮込んだ煮汁を染料に使います。何度か浸け込みと乾燥を繰り返した後、泥田へ浸けて揉み込みを行います。こうするとテーチ木の煮汁に含まれるタンニン酸と、泥に含まれている鉄分が反応して、黒く染まっていくのです。これは、鉄分が豊富に含まれている泥でなければならず、また、泥となる土の粒子がきめ細かくないと、繊維を痛めてしまうため、こうした条件を満たしている、奄美の風土があっての染色方法と言えるでしょう。また泥田には必要に応じてソテツの葉を加えることにより、鉄分を補充することができます。このようにして泥田に浸けた後、きれいな川で泥を洗い流し、再びテーチ木染めを行います。大島紬の深い黒色は、テーチ木染めを50~60回、泥染めを5~6回繰り返すことで、やっと染めることができるのです。


  • このWebコンテンツは、財団法人奄美文化財団が、平成22年度子どもゆめ基金(独立行政法人 国立青少年教育振興機構)の助成金の交付を受けて制作したものです。
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